私は、私。

ここだけの話(笑)ですが、


実は、漫画家になるのが夢でした。
小学校に上がらない頃から、
私は毎日毎日、おびただしいお絵かきごっこをして過ごしていました。

山間部ゆえ、近所に同年代の遊び仲間が少なかった事もあり、
私の遊び相手は、紙とペンでした。

朝起きると祖父が、
私には手の届かない棚から、わら半紙を1枚くれるのです。
その裏表を使って、お姫様やらケバい女性(笑)やら、隅々まで描き込むのです。

使うのは、細字のサインペン。
わら半紙だと、インクが裏抜けしてしまうので、裏に描く時は白い部分を探して描くような感じです。

月の初めには、いつもお楽しみがありました。
前月のカレンダーを破ってもらい、裏側の白い部分は描き放題です。
白くてツルツルした紙に、縦横無尽にペンを走らせ、好きな様に絵を描く楽しみ。

楽しくて楽しくて、時間を忘れ、ご飯を忘れ、好きなアニメを見るのも忘れ、お風呂に入るのも忘れて描き続けたものでした。

そういう描き方が出来なくなったのは、いつ頃からだろう?

ふと考えると、それは多分、小学校にあがった頃だったと思います。

自慢でもなんでもなくて、
絵がウマイ、ってのは同級生の注目を浴びるものです。
人一倍おとなしくて見た目もパッとしないし、
勉強も大した事なくて、絵ばかり描いてたから運動音痴だし、
給食も好き嫌いが多い上に食べるのが遅いとなると、

絵が他の子よりいくらかでもウマイ、ってのは、私にとって唯一、ひとさまにアピール出来る能力でした。
その他大勢に埋没しがちな平凡な少女は、絵を描く事でかろうじてクラスの中での存在感を示す事が出来ました。

そして、それは、結果的に、私の首を絞める事にもなりました。

同級生からの「漫画描いて」というお願いは、毎日毎日、止むことはありませんでした。
こういう服で、こういう靴で、こういう髪型で・・・・
華やかな大人の女性達への憧れは、幼い頃は誰しもが心のどこかに持っていたと思います。
カールした髪。ハイヒール。フリルが沢山ついた、ロングドレス。

それは私にとっても、手の届かない憧れの世界の一部でしたから、絵に描く事は楽しい事ではあったけれど、同時に「描いて、描いて」と言うクラスメイト達の要求を満たしているのかどうか、毎回緊張しながら鉛筆を走らせていました。

描いては消し、描いては、消して・・・

自分が描きたい絵を好きなように描く、という、当たり前の事から少しずつ遠ざかって行く事に、当時は全く気づいていませんでした。

あの時、
「そういう絵は描きたくないの」
「あたしには描けない」
と、きっぱり断る勇気があったら、今の私はまた違う生き方をしていたかもしれません。

でも、
一方で、色んな絵を厭わずに描くという訓練もする事が出来ました。
その意味では、小学・中学・高校で、私の絵を沢山褒めてくれて、さらにあれこれと描く事を依頼してきた同級生達にはとても感謝しています。

他人の要求に応えて絵を描く事の難しさを10代で散々経験しました。
「もうちょっとさー、カッコイイ感じにしてよ。今、流行ってる様なので」
私にはこれが結構ハードルが高い(・_・;)

何が流行ってるのか、本当に疎いのです。
髪型とか洋服とか、流行の波に乗れない。
ノンノやアン・アンを買うより、アニメ系雑誌やマンガばかり買っていた私です。
「ピンクハウスのワンピースを描いてよ」と言われて、もー難儀しましたよ・・・
でも、クラスメイトはそんな私に、ファッション雑誌を切り抜いて持って来てくれました。

そうやって、漫画風イラストを山ほど描いていた10代でした。

高校で美術部に所属し、デッサンや水彩画を描いていると、
漫画だってデッサンが重要なのだと解ってきます。

絵をちゃんと習わないといけない。
その気持ちは高校2年くらいからヒシヒシと感じるようになりました。

そして、
リクルートブックの専門学校編を片っ端から読んで、デザイン学校をいくつかピックアップしたものの、父の反対に遭いました。

「デザイン学校を出て、どこに就職してどのくらい給料がもらえるのか、解らないような学校では行っても仕方ない」
「学校で技術を学ぶのは、銭をどれだけ取れるかが大事だ」
「絵なんか描いて、それがカネになるのか?」

そう言われると、世間知らずの子供は何も言い返せない。

父にしてみれば、資格の様にキチンと「形」になるものでなければ、専門学校など行っても仕方ないと思ったのでしょうね。

父とは毎日大げんかでした。
でも、ボキャブラリーが貧困(笑)な私は言い返せない。反論出来ずにただ泣くばかり。

元々、私がお絵かき大好きっ娘になったのは、
遊び相手が身近に居ない私のために、母がお絵かき遊びをしたのがきっかけです。
母はイラストが上手だったので、和服の女性などササッと描いてくれたのが、3歳の私には衝撃でした。

でも、絵ばかり描いて勉強しない私は「絵なんか描いてないで勉強しなさい!」と何度も母に叱られましたよ。
(おかーさんが私にお絵かきの世界の楽しさを教えたくせに・・・) 悶々とする娘(笑)

そして、そういうやり取りの中で、
私は自信を失って行きました。

好きな絵を、好きなように描く楽しさを見失い、
さらに「世間は厳しい」と説く父に自分の能力の不安定さを思い知らされる日々。

結果、造園建設業を生業としていた父のお眼鏡にかなった、造園デザインの学校に通う事となり、製図などの細かい作業を黙々と続ける日々でした。

それでも、やっぱり漫画の世界に挑戦してみたい。
デザイン学校のすぐそばにある小さな漫画家養成学校の広告を見つけ、両親を説得し、毎週土曜日の授業に1年間通いました。

そこでもまた自信を失う私でした。

そこは、毎日毎日描き続けて技術を高めてきた精鋭が集う教室でした。
すでにプロのアシスタントをしている人もいました。漫画コンテストで何度も入選した人もいました。
ペンの使い方が全然違う。教室の片隅で、鉛筆を走らせるだけの私とはレベルが違う。
圧倒される日々。そこに来て初めて、もっと自分の好きな道を小さい頃から邁進すべきだったと思い知らされたのでした。

赤塚不二夫先生の講義もありました。
テレビで見るお酒好きなオジサンではありません。厳しい言葉がいくつも並びました。

学校に行くたびに自信を失っていく私。
それでも、担任だった岡野先生は、私の絵をとても褒めてくれました。
1年が終わる頃に先生の名刺をもらい「もし本当にやる気があるなら仕事があるよ。私の所にいらっしゃい」と仰って下さいました。
そこでどうして飛び込まなかったんだ私!←当時の私を叱る今の私(笑)

岡野先生は、いわゆるオトナ向け漫画雑誌の表紙イラストを、エアブラシなどを駆使して非常にリアルに描かれるプロの漫画イラストレーターでした。
艶めかしい表情やポーズが表紙になった漫画雑誌を、キオスクやコンビニなどで目にされる事も多いと思います。
そういう、アダルトなイラストを描く手伝いをしないか、と仰って下さった訳ですが、
当時ハタチの田舎娘にはかなりの刺激と衝撃でした・・・・

こんな絵を描いてると親に知られたらどんだけ怒られるだろう・・・
きっと恥知らず!となじられるに違いない・・・
そう思ったら、とても「お願いします」とは言えませんでした。
(今だったら、あんな所やこんなポーズも、バンバン描けますよ、ええ!(笑))

そして、私は漫画家への道も、画家になる事も諦めていました。

思えば、色んな可能性に自らフタをしてきました。

私はずっと、父や母、そして育った環境に人生の可能性にフタをされた、封じ込められた、と思い込んでいました。

今になって、封印してきたのは、自分自身だと解りました。
その方が楽だったからです。

他人と比較し、自分の力を疑い、何も出来ないと自己評価を下げる。
そうする事で逃げ、楽をしてきたんでしょう。

楽しむ事も、どこかにおいてきてしまったようです。

昔のように、
時間を忘れ、
ご飯を忘れ、
お風呂に入るのも忘れるくらい打ち込む楽しさを、とうの昔に置き去りにしてしまった。

それを過去に遡って、拾い上げる事はもう出来ないけれど、
今の生活のなかで見つける事ならば、出来るのかもしれない・・・

漫画家になることも、イラストレーターになることも、とうに諦めてしまったけれど、
ただ趣味の為に絵を描く事だけは、細々と続けておりました。

1人で描いてるのもなんだかつまらなくて、
書店で何となく開いた「ケイコとマナブ」に出ていた、恵比寿の「アトリエ・ドガ」に通う様になって早23年。

月に数回通い、何となく描いてみたパステル画が、
好きな様に絵を描く楽しさを再び思い出させてくれました。

現在は色鉛筆画を中心に制作し、有り難い事に生徒さんが3人つきました。

自分の絵で何十年ももがいている私に、果たしてひとさまに絵を教えるなんて出来るのだろうかと、最初はひどく不安でしたが、何とか楽しく絵を描くノウハウを伝える事が出来て、やっと私自身も教え伝える楽しさが解りかけてきた感じです。

そして、自分自身も楽しんで描く事を、もう一度考えてみようと思い始めました。
生徒さんが楽しんでるのに、教える私が楽しんで描けない様では、絵の楽しさは伝えきれませんものね。

他人と比較しない。
私は、私。
私にしか描けない絵が、きっとある。

随分遠回りをしてきたけれど、もっと自分の能力を信じないとだな、と今やっと解りました。

やり直しです。色々と。

楽しかった、あの頃を思い出して。

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